昭和46年11月09日 朝の御理解



 御理解 第95節
 「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」

 神を商法にしてはならぬ、商売ではないとね。信心御取次の道とこう言われる。だからそのお取次商になってはいけないと言う事ですね。氏子の願い、いわゆる人間の願いを、神に取次ぎ、神の心又は神の願いを氏子に取次ぐ。取次ぎ取次がれる。そういう取次ぎ取次がれる働きを、お取次の道とこう言われるのですけれども、お取次をする人が、お取込みになってはならないと言う事。もうあれは、椛目時代でしたね。
 ある先生が見えてお話しを聞いたんですけども、最近は金光様の先生の中にお取次の先生じゃなくて、お取込みの先生が多くなったと言うて、笑い話とも皮肉ともつかん様な事を話された事があります。何を取次ぐかと言うと、やはりおかげを取次ぐのです。ところが、おかげは取次がずに、いわゆるお取次商になってしまう。商売商いですね。取次いでやるためには、ちゃんとここにお初穂を、お取次料を受け取らなければお取次はしてやらん。それは考え様ではやはりそういう事が言えんでもないけれども。
 昨日も私は或る方がお礼に出て参りました。夫婦で私はお礼に出て来るものだと思うとったところが、家内だけがお礼に出て来た。だから「主人は」と、私が申しました。「一緒にお礼に出たいと思うておりましたら、まだ眠っておりましたから」とこう言う。「それじゃ済むまいが」と私が。例えば「こういう様な事情、こういう様な時に、それこそ夫婦兄弟揃うて、お礼に出て来じゃこて」と私が申しました。
 帰ってから私が、「私は決してね、あんた達がお礼に出て来てから、御供えを少し余計貰うとか、そういう事じゃないよ」と。「けれどもこれは、私が神様にお取次をさせて頂くからには、こういうおかげを頂いておってです、しかも子供としての道と言うことを思うならね、夫婦が揃うて、例えば今日は、商売なら商売でも止めて、今日は挙げてあんた方はお礼に出て来にゃならんよ」と私が。
 「それは結局、神様のおかげと言う事を言うておるし、本当に神様の働きと言う事を、その様に本当に思うならば、それを神様にお礼を申し上げる。私もまたそれをおかげと思うておるから、お取次をしなければならない」と言う事を申しましたが、成程お礼に出て来りゃそれだけ旅費も余計かかるし、又はお初穂もしなければなりません。そう言う事もです、私は信心も中々時間も金もかかると言う様な事を申しますけどね、時間と金とかかるというた様なことでは、信心ではおかげにならんと私は思います。
 いわゆる、そろばんを持った信心、まあここんところでは、教祖様は世には神を売って食う氏子が、いわゆる、神を売って生活をして行くものがあると、此の方は銭金では拝まんと。いわゆる、商売ではないと言うことを教えて居られるけれども、お取次をさせて頂く者の中にも、今申します、お取次の先生ではなくて、お取り込みの先生があると。すると私は拝んで貰うと言うか、ここでは銭金では拝まぬと仰るから、拝んでやると言う事は、お取次をしてやると言うことでしょうね、教祖様の。
 だから、その拝んで貰うと言う事、お取次願うと言う事もです、やはりお取次願えばお金がかかるからと言うた様な思い方は、取次の先生は商法にしていないでも、取次を願う氏子が、もうすでに商売の様にしてしまっておる、思うておると言うことなんです。信心すれば暇もいれば時間もかかると、言う様な考え方は、お取次願う方の側が商売の様に思うてしもうとる。
 今日は私はそこんところを成程、教師たるもの、お取次させて頂くもの、お取込の先生になってはならないと言う事だけではなくて、そのお取次を願う者側も、ソロバンを持った信心をしてはならぬ。まるきり商売人の家に商品を買いに行く様に思うておる。高いの安いの、お金がかかるのと、決してそうではないですね。成程皆さん達は、毎日沢山のお金を使ってお参りして見えますけどね。
 そこんとこの内容と言うものが、取次ぐ者も真心なら、取次を願うものも真心、そこにはじめて、取次ぎ取次がれる所の働きと言うか、おかげが私は頂かれると思うのです。そこで例えば、どんなにお供えさせて頂いても、そのお供えが品物を買う時にお金を支払わんならんと言う様な意味の支払であってはならん。お供えであってはならんと言う事です。まあ色々信心の薄い者は、その辺の所を間違えましてね。
 やはりお寳銭もいりゃ、お初穂もいると、金がかかると言う訳ですけども、まあ事実形の上ではそうです。けれどもそのお供えと言うものがです、いわゆるその真心と言うものがです、どういう働きをなすものか、お供えした事ではない、お供えさせられておるのだと言うことです。例えば毎月一万なら一万と言うお金をお供えをしておるとします。信心のなかった時は、そういうお金は要らなかったけど、信心させて頂く様になったら、やはりころっと一万円余分の金が要る。
 それだから例えて言うと一年には、自分の財産から十二万円と言うお金が赤字にならなければならないのだけれども、一年間しめくくって見たら、一つも赤字になっていない。赤字になっておるどころか、黒字になる程しのおかげを受けておると言う事実をね、お互いが分らせて頂いたら、お供えをしておるのじゃない、させて頂いておるのだと言う事が分る。そこには神様を、おかげを商品の様な頂き方をせんで済む訳。
 いわゆる有難い勿体ないと言う、それがお供えの形になり、それがまた事実は、それに有難い、勿体ないと言う様なおかげが頂かれると言う事になる。お参りをすれば、信心をすればお金が掛ると言う間は、お道の本当の信心を分って居ないと言わなければならんと同時に、神を商法にしてはならんと言うが、ならそれを願う氏子の方から、神様のおかげを商品の様に思うたり、先生を商人の様に思うたり見たりする訳である。
 そこでそういうおかげを頂かして貰う信心と言うものがです、どういう過程と言うか、どういう道すがらを辿らせて貰うて、そういう信心になって行くかと言う事を、ひとつ思うて見たり思うですね。昨日私は、もう三時位だったでしょうか、岡山から結婚式に娘達夫婦が来てまだ居りますので、今日帰るわけでしょう。それと奈良から家内の姉が来とりましたですから、三人を供のうてからどこかお食事にでも行こうかと言うて誘いまして、娘婿が車で来ておりますから、あの人の車で、どこへ行くと当てもないですから、「久留米の方が良いか、日田の方がよいか」と。
 「あんたどんが良か方がよかたい」と言うて、まあやらして頂いたら、車が吉井の方へ曲がりよかったから、ならあっちの方さへ行こうと言うてから行く、行く、どこへ行こうかと思うてから、日田まで参りました。このごろ総会の時に杖立てを通りましたからね、確かに日田から余り遠くなかったと思うてから、なら杖立てに行こうかと。私共は杖立てに行きよるつもりでさっさと行きよりましたら、どうも道が悪いですもん。
 こげん道が悪い事はなかったがと思うて、「とにかくここでいっちょ聞いてんの」ち言うてから聞かせました。杖立てはと言いなさるけんで、ならこら末だ行かなんばいちゅうて行きよったところが、天ヶ瀬と書いてあります。これはあんた天ヶ瀬の方さへ来よるたいちゅうちから、まあ四、五分すりゃ天ヶ瀬温泉ちゅうところ迄行ったです。ところがね、道が余り悪いもんですから、娘婿が申します。
 「これはお父さん、帰り夜中になるじゃろうが、こげな悪か道ば帰らんならんなら、どんこんされませんですよ」と言いますもん。夜中に仕事やらしとりますそうですから、そんならもう天ヶ瀬でん好かたいと言いよったところが、なら明るか内に引返そうと言うて引返して来ました。そして又日田まで出まして、それから又杖立てを目指してね、参りました。それはもう景色がよくてですね、本当にそれは両方ひらけて来る。
 全山紅葉しておるのに。随分参りましてね、ところがどうもこれは、橋がばさらか多過ぎるが、これは杖立てじゃろうか、「いっちょ聞いて見んの」と言うたら、「これはあなた、熊本さに行きますよ」と言いますもん、言う事になりましてね、随分そこを走りまして、やがて熊本に着きます。それから引き返しまして、又日田さへ引き返しました。とにかく杖立てに行くとに三時間かかった。そして帰りがけに、ほんにもう一時間足らずでここまで来るとですよね。それにその三時間かかって来とります。
 天ヶ瀬に行ったり熊本に行ったりしよるもんじゃけん、時間のかかる筈です。けれどもひとつも退屈しませんでした。余りにその景色が素晴らしいので、景色が良いのですよ。そしてあちらに着かせて頂いてから、「まあここに来るのに三時間かかりました」と言うたら、女中さんが、「ここも紅葉がこうやって此処も奇麗ですけども、紅葉を見に見えたと言うお客様には、私共が御案内してから、あなた方がお出られたところに一遍通り案内しますよ」と言う様にやっぱりそこは美しい所と言う事で、あちらに丁度よい夕食の六時、三時からですから三時間かかって、六時頃着いた訳ですね。
 それからあちらで、大した料理はなかったですけど、お腹が空いておりましたから、ぺこぺこですから、大変おいしいごちそうになりました。それからお湯ども頂いて、それからこちらへ丁度九時の御祈念が終わっとるところへ帰って参りました。それで私車の中で道々三人に、私がお話しをして来る訳です。今日のこれが、何時にどこどこまで行かねばならんと言うのでしたら、随分といらいらもやもやしたことだろうと。ところが向こうの方はちっとはもやもやしよるごとある風ですもんね。
 あんまりあっちこっち、行ったりしよりますもんですから、けれどもこれは態々でん、まわってでん来たいところだった、と言うて結局ありましたが。信心させて頂く道すがらと言うものはね、こういう事と同じ事だと、私が申しました。その三時間に、私どもが経験したことを話すんですね。皆さん御承知の様に、千足あたりまでは雑然としてますよね。ところが千足辺りから、ずうっとドライブコースの、景色のよいところをとおりますね、日田までは。
 だから「信心始めと言うのはです、まあよいやら悪いやら、有難いやら有難うないやら。まあ言うならば、千足辺りまでじゃないだろうかね」と私が申しました。何じゃかんじゃわからんけれども、段々進んで行きよったらああこれは信心してよかった。いやこれは来てよかった。仲々これは景色がよいと言うて、千足から日田辺りまではですね。まあ景色がよい、景色がよいと言う所を、登ったり下ったりしながら参ります。
 そこでです、三叉路か別れ道かに出ましてね、そこにかならずちゃんと、こちらは熊本行き、こちらは天ヶ瀬行き、こちらは杖立て行きと言うことが、案内表標が出ておるのですから、それを見そこのうておった訳です。この辺のところから信心が迷い出す。信心ちゃ有難いなあと、少し分かりかけたところから、信心に迷いが起こる様な事が起こって来る。そこで、信心が挫折する人、止めてしまう人がある訳です。
 それこそ天ヶ瀬行きなんかの場合なんか、それこそ道が、今いそいで行かれません、大変な道が広うなってる訳でしょうか。私は思いました、本当にこうしてお取次させて頂くでも、これは本当に、私はこげん思う位のことでお取次してちゃでけんと思いました。「これは、杖立てに行くとでしょうか」と言うたら、「はあまだまだ杖立ては」と言うてから、教えられたものですからね。
 ですから私は、そういうお道の信者でそういう人がありはせんじゃろうかと思うですね。とうとう行きつかんなりに、違ったことを教えられて、おかげは本当のおかげにならんなりにです、しまえてしまう様な人が。まあ私共はそういう風に途中で教えられて、「まだまだ行きなされにゃ」と言うので、行きよったけれども、結局天ヶ瀬に着かせて頂いて、これは天ヶ瀬たいとわかったから、言わば引っ返すことになった。
 だから同じ金光様の信心を頂いとっても、ここでもそういう人がありましょう。何十年信心させて頂いとるけど、合楽に来てはじめて、信心の有難さが分ったと言う様な意味のことを言う人があります。そういう人は天ヶ瀬行きをしよる、さっさと道の悪いところを。そこで又、私どんが日田に引き返してから、いよいよ杖立てを目指さして頂いて、杖立てと言うのは、例えばあれは足の悪い人が温泉に入って、温泉は昔からの温泉ですから、で杖を置いて来る、杖を忘れて来ると言う程しの霊験がある。
 と言うところから杖を立てて来る、もう杖は置いて来る、と言う程しに霊効があると言うのが、杖立て温泉の由来だそうですね。杖立てと言う名の、そういうもう「不思議とは言うまじきもの」とおっしゃるけれども、不思議と思わねば居られない程しのおかげを日々頂いて行けれると言うこと。天ヶ瀬の方へ参りましてから途中です、ちっといらいらしよるごたるふうですから、ちょっとドライブインでも寄ってから、お茶でも飲んで行こうかと言うて寄って。
 寄ってからですね、まあジュースでも飲んでから、それからいよいよ、私が杖立てで降ろして頂きましたらステッキがない、あら天ヶ瀬のあそこの「山かげ」とか言うドライブインがある、表に大きな水車の舞いよるところ、そこへ忘れて来とるそれはしまった、あそこは何と言うところだったかわからんと言ったら、いや私がこうしてマッチを貰って来とるけんで、そのマッチが、電話が書いてないですから、電話がないらしい。それで見たところが「角の井」と書いてございます。
 どうも、綾部さんところ辺りから、卸しに行きなさるお店らしいです。それならまあ綾部さんが参って来なさったら、あそこに間違いないのだから、言伝をして、お願いをしてから、貰うて来てもらうと。そしてね、私はそのことも申しました。私がステッキを忘れて来た。言うなら杖立てに来て、杖を置いて来たと言うことはね、只忘れて来たじゃない、言わば、綾部さんの番頭が、あそこに杖を貰いに行って呉れるだろう、「そこからまた何かが開けるよ」と言うて帰って来ました。
 「無駄じゃないて」と。信心の道すがら、過程には、その様なさまざまな事があります。けれども、そこんところを挫折することなく、止めることなしに、杖立てに着かせて頂かせて、お風呂に入らせて頂いた時にはじめて、ああ極楽と言う事になるのです。お風呂に入って皆さんが言うでしょう、疲れがいっぺんに取れてしまう、毎日毎日が、有難い勿体ないと言う生活、それが極楽なのです。
 その極楽を、いわゆる極めて行こう、その極楽を頂いて行く、いわゆる有難い勿体ないの生活が出来るためにはです、決して「信心は上から下へ水を流すのは容易いが、下から上へ水を流すのは難しい」と、「道をひらくにも、匹夫の凡人から開くのじゃから」と、九十節で教えておられますね。例えばそう言う事を難しいと言うならやはり難しいです。そこでいらいらしたり、もやもやしたらです、やはり難しいです。
 そのがたがた道を行きよるときにもです、そこの中に何かを、自分の思いは一つも成就していないけれども、とにかく此処に来たおかげで、こういう美しい景色を見せて貰ったと。それはおかげとはつながってはいないけども、その道々が随分楽しいもの、ああこっちはもう間違わせて頂いてよかった。こげなところは態々でも来たいところだと、言う様な取らえ方なんです。
 信心をさして頂いて、信心の有難さと言うものはです、例えばそこに難儀な事があっても、その難儀な事の中から、この難儀のおかげでこういう事がわかったと言う時代が、私は天ヶ瀬行きではなかったろうかと思うです。そしてそれは苦しい事であった、歩きにくいところではあったけれども、熊本行きの方へなった時には、もうすでに信心の喜びがいっぱいの時なんです。
 右を見ても左をみてもとにかく素晴らしい、素晴らしい道はよいしねあちらの方は、と言う時代を通らして頂いて、日田へ引きかえして、それからまた本当な杖立てを目指さして頂いたところに、杖を立てて帰る程しの、言うなら不思議と言わねば居られない程しのおかげも、表れて来るでありましょう。と同時にいよいよ本当の意味においての極楽、その私は極楽に辿らせて頂くと言う事が、信心の最高の目指しなのです。けれどもやはり様々な、丁度過程と言うものがあって、信心にもそういう過程がある。
 だからそこんところを難しいと言い、そこんところを、お金がかかると言えばそれまでですけれども、その位の事ではない。真心いっぱいをもって信心させて頂くならば、どういう道の悪いところでも、歩きにくいところでも有難いし、又おかげと言うものには、つながってはいないでも、本当に信心のあるものとない者の違いを、親のある子とない子の違いを感じながら、信心の奥処へ、信心の奥処へと進んで行く事が出来ると言うのが、私どもの熊本行きの、あの往復の事じゃないかと思う。
 そして言わば、どこまでも杖立てと決めたら杖立てと、一路杖立てを目指して、杖立てに到着した、丁度自動車の停まった所が、喜久の家と言うか、あの喜び久しいと言う旅館の前でした、そこへ停まったんです。ならここへ決めようと言って、そこへ寄らせて頂いて、喜び久しい、いわゆるお徳の世界、極楽の世界に到達させて頂いた。ですからそこのところをです、私共が味合わせて頂くと言う、そこにはね、決して信心にはそろばんを持たんで良いと言う事。お供えが出来れば出来ることが有難い。
 お金がかかればかかることが有難い。いくらかかるとか、お供えせんならんとか、全然なくなって来る。又、事実もう限りない、おかげの頂けれる、言うなら必要なものが必要に応じて頂いて行けれる世界が、展開して来るわけです。どこを通らせて頂いとっても、今こそ修行の真最中、今こそ信心させて頂いてはじめて、親のある子と無い子の違いがわかる。そしていよいよ信心の、いわゆる、天地乃神様が、「氏子信心しておかげ受けてくれよ」とおっしゃる。
 そのおかげを頂き止めた時にです、はじめて私は、お道の信心が、取次ぐ者の、今日は私は、お取次を願う者側から話しましたですね、商法にしてはならないと言うこと。「金光様の信心すりゃお金がかかる」と言う間は、未だ、言うならばおかげを商品の様に思うておる時とき。そう言う事では事実、ない体験をさせて頂いて、お互い今どこを辿っておるところであろうかと、自分の信心を思ってみて下さい。丁度合楽からまだ千足の間、まだ信心が何が何やらわからん。
 いっちょん良かところはなか。車ばっかり多うて、雑然としとるところを行きよるとじゃなかろうか。だからそこで、信心ちゃ大したことじゃなかていと思うたら、信心はもうそこまで。そこで、そこを辛抱して行きよりますと、千足辺りからずうっとよい景色が開けて来る。成程信心ちゃ有り難かねと言うところを通りよる人があるか知らん。日田へ到達した。さあこれからどっちへ行くとか。
 本当じゃろうかと迷いが起こっておられる人があるかも知れん。そこんところの道しるべと言うものをよく見ずに、只思い込み、只その思い込みだけで、一生懸命天ヶ瀬に行きよる人があるかも知れん。もう一ぺん日田に引き返さにゃいかんと言うて、日田へ引き返しよる人もあるかも知れん。今日青年会の、新しい青年会の人達が、昨夜お参りして来た。のがまあ何が何じゃわからん。
 まあ千足までのところじゃなかろうか。そこのところの過程を、自分は今こそここのところを大事にしなければならんなあと言うところである。久留米の大場さん一家は、天ヶ瀬のところから引き返しよんなさるところじゃなかろうかと思う。これが本なごとと教えられるもんじゃから、さっさとほらまだまだちゅうもんじゃけん、もう杖立てがすぐと信じて進みござった。
 ところが、途中で一寸これはおかしいなあと気付いた。ところが、これは杖立て行きじゃないと気付いて、今逆もどりして、日田の方へ行っとられると言った様な感じです。まだ道の悪いところを辿りよるけども、これはこのまま行くなら、本当なことがわかるぞ、本当のところへ行けるぞと、もう、少しは合楽の信心の有難さがわかりかけておられると言う。随分信心はしておられる。
 やがて極めるところまで行かれよったけれども、これば極めぬいて行ったところで、決して本当の、いわゆうがたがた道を一生歩かにゃならんと言うところであった。それを今、日田の方へ引き返しござると言った姿じゃあるまいか。お互い日田から、もういよいよ、これを行きさえすれば、もう絶対杖立てに行くと確信をもって、心に安心を頂いて、進んで行ってる人達もあろうとこう思う。だから本当に行きつくところまで信心辛抱しぬかせて頂いて、おかげを頂かなければならないと思いますね。
   どうぞ。